卒業生の声
成長できる環境を探して
古い住宅を解体すると、大量の廃材が発生する。この廃材を流通?再利用することで、豊かな暮らしを実現させる。長野県諏訪市でそんなユニークなビジネスを手がけるのが、芸術工学部(以下、芸工)出身の東野唯史さん。最近、テレビや雑誌でも盛んに取り上げられるなど、今日、注目の空間デザイナーの一人である。
東野さんが芸工に入学したのは2003年。この時、彼はあることに驚いたという。
「デザインに必要な実務的なソフトの使い方よりも、デザイナーとして必要なコンセプトづくりを徹底的に叩き込まれました。これが専門学校との違いなのかな、と思ったことを覚えています」
特に印象に残っているのは、当時、教鞭を取っていた川崎和男先生(現?本学名誉教授)。デザインディレクターとして国際的に活躍し、「Newsweek」誌?日本語版の「世界が尊敬する日本人100」に2度も選ばれている。その先生に言われたのが「デザインで世界を良くしなさい」という言葉だという。ただカッコ良い物をつくれば良いのではない。自分がつくった物が、使う人にどんな影響を与え、社会のどんな問題を解決できるかを考えてデザインをしなさいという意味だ。この言葉が、後に彼のデザイナーとしてのテーマになっていく。
卒業後は空間デザイン会社に就職し、イベントの装飾デザインを担当。彼自身は、この時期を「スキルを身に付ける期間」と位置づけていたという。
「この会社では、最新ソフトの使い方や、クライアントとの打ち合わせの仕方、コンペに勝つテクニックなど、デザイナーとして戦っていくための多くの『武器』を身に付けることができました」
仕事はきわめて順調だった。しかし2年9カ月後、もっと成長したいと感じた彼は、より厳しい環境に身を置くために世界一周の旅に出ることを決めた。
「特に目的があったわけではありません。自分が成長するには、知らないことを見たり聞いたりするのが一番だと思い、それなら海外が良いだろうということで日本を飛び出しました」
無謀にも、人生初の海外が世界一周旅行。台湾から西回りでアジア、ヨーロッパ、アフリカ、中南米を経由し、約1年間、バックパッカーを経験した。しかし成長するために旅に出た彼が、この旅を通して気づいたのは、デザイナーである自分の無力さであった。
「デザインができても、コンペに勝てるアイデアが出せても、パソコンとプリンターがなければ図面も描けません。もし図面があっても、資材とつくる人がいなければ何ひとつ形にできません。自分自身の人間としての無力さを痛感しました」
帰国後、自分の力で生きていける人になるという目標を立て、フリーランスの空間デザイナーとして仕事を始める。その活動の中で関わった一つの現場が、彼のその後の人生を変えることになる。
現場の全員が笑顔になれる建築スタイル
イベントの大規模なステージ設営など、彼は空間デザイン会社でいくつかの建築の現場に関わってきた。彼が知っている建築現場は、大工の棟梁や現場監督が頂点に立ち、職人は監督の指示や詳細設計図面に従って作業をするという形が普通だった。しかし2012年に彼が担当した、東京?蔵前の玩具店の倉庫をリノベーションする「Nui. HOSTEL & BAR LOUNGE」のプロジェクトは、今までのどの現場とも異なっていた。
「全国から大工の職人さんが集まって、詳細設計図面もないのに全員でアイデアを出し合いながらとてもカッコ良い空間をつくりあげていく。しかもその現場には施主(せしゅ)さんの友人が集まって、楽しそうに手伝ってくれている。私にとって、こんなふうに現場の全員が信頼関係で結ばれ、みんなが笑顔になれる空間づくりの方法があるということが衝撃でした」
そんな家づくりがしたくて、彼は2年後に結婚したばかりの奥さんと二人で空間デザインユニット「medicala」(メヂカラ)を設立した。
「施主さんはもちろん、地元の大工さんや友人たちが力を合わせてリフォームやリノベーションを行います。私たち夫婦も建築期間は現場の近くに住み、全員でごはんを食べ、その土地の建築資材を使ってつくります」
誰か一人がコントロールするのではなく、全員の熱量が吹き込まれることで、予想もできない素晴らしい空間ができあがっていく。それは、自分一人ではものづくりができないという問題意識に向き合った彼がたどりついた、一つの答えでもある。この方法による新しい空間づくりはたちまち口コミで評判となり、東野さんは全国から声がかかるようになった。
福岡から名古屋へ出てきたのが2003年。それから10年余で独自のスタイルを確立しながら、全国区のデザイナーへと成長した。
芸工で学んだ4年間は、大学生活が楽しくてなるべく校内にいるようにしていた。共に青春を謳歌した同級生たちと今でも年1?2回集まる機会があり、そこでも笑顔の空間が生まれ、仲間からは大いに刺激を受けているという。まだ歴史の浅い芸工の8期生という東野さんは、次代を担う後輩たちへの思いも人一倍強い。
「頭を使って物事を考える力は、他の美大よりも芸工の方が体得できると思う。それを使って自分の道を切り開ける環境も芸工には整っているはずだし、いろんな分野の人が大学にいるので視野も広くなる。視野が広くなればなるほど、判断をするためツールも増えていく。もちろん本人の意識も重要だが、この芸工には他の大学よりもそんな可能性がいっぱいつまっていることを、少しでも気付いてもらえればと思い、特別講師として参加させていただいています」
楽しく刺激的な仲間たちと共に叩き込まれたコンセプトワークが芸工の強みであり、今でもさまざまな分野で活躍する卒業生の糧になっていると笑顔で語った。
諏訪から、古材リサイクル文化を発信する
2016年、東野さんは長野県?諏訪市を生活の拠点と定め、同時に新しい取り組みをスタートさせた。それが「リビルディングセンタージャパン」だ。リビルディングセンターとは、アメリカ?ポートランドにある、建築建材のリサイクルショップのこと。彼は新婚旅行の途中でこの店に立ち寄り、そのビジネスに大いに共感した。
「この店では、住宅を解体して出た古材をすべて再利用して販売していました。それを見て、世の中から見捨てられたもの、本当は失ってはいけないものにもう一度価値を見出すという姿勢に感動しました」
近年、日本でも老朽化した空き家が増え、その多くが取り壊されて古材がゴミとして廃棄されている。メヂカラで木を使ったリノベーションを数多く手がけてきた東野さんは、こうして古材が捨てられる現状を実にもったいないと感じていた。そんなモヤモヤした問題意識を感じていた時にリビルディングセンターに出会い、彼は閃いた。
「自分にはメヂカラの活動を通して培った、古材を回収してデザインに落とし込む技術がある。また芸工の頃から、コンセプトづくりのスキルを磨いてきたつもりだ。さらに妻は、人を集めるパワーとなるカフェを運営できる。ということは、自分もリビルディングセンターのように古材流通のハブとなる店をつくれると確信したんです」
帰国後、東野さんはすぐにリビルディングセンターとの交渉を開始し、2016年に長野県諏訪市に「リビルディングセンタージャパン」をオープンさせた。
リビルディングセンターの活動と並行し、今でも彼は古材を使用した店舗のデザインも続けている。以前のように現場に住み込んでつくることはなくなったが、今でも全国各地から彼に空間デザインの依頼が舞い込んでいる。
「デザインって、自分勝手な自己表現の手段ではなく、誰かの課題を解決したり、人と人を繋いだりする手段だと思います。私は、せっかく人生の時間を使ってデザイナーをしているのですから、目の前にある社会問題を一つでも解決したいと思っています」
そして、それはいつか川崎先生に言われた「デザインで世界を良くしなさい」という宿題に対する、提出期限のないレポートでもあるのだ。
プロフィール
東野 唯史(あずの ただふみ)さん
株式会社リビルディングセンタージャパン 代表取締役
[略歴]
2007年 芸術工学部 生活環境デザイン学科(現?建築都市デザイン学科)卒業
もともと建築やデザインに詳しくなく、世界的な建築家の安藤忠雄氏も芸工に入ってから知ったという東野さん。しかし名市大で川崎先生をはじめとするさまざまな人に出会い、デザインで最も重要な「コンセプトづくり」を学べたことが、その後の彼の活動の原点になっている。今日でも特別講師として時折名市大を訪れ、「稼ぐためのデザイン」よりも「世界を良くするデザイン」の方が大切であることを後輩に熱く語る。